九井諒子『ダンジョン飯』の感想文

九井諒子ダンジョン飯』を読んだので、感想を書いておく。キャラクターたちの「偏り」がとても魅力的で、かつ独特の(ある意味とても現代的な)死生観に貫かれた作品だったように思う。
ライオスというキャラクターの性質として、作中で繰り返し人間に興味がないと語られている。それは彼の言動を見れば一目瞭然であり、彼は人間よりも魔物など他の生きものに強い興味を示し続けている。
一方で、マルシルやチルチャックは彼らよりもずっと他者との距離感が(よくも悪くも)平凡である。マルシルやチルチャックは人間の形をした生きものを食うことに抵抗感を示す。マルシルの場合は漠然と「気持ち悪い」生きものや(序盤には)墓場であったダンジョンの植物を食うことにも同様に忌避感を示しているものの、チルチャックはとくに人魚など人間に近い姿形をした生きものを食うことを強く拒否している。
これは人間としてごく自然な心理であるように思われる。現実世界では、社会的にであれ安全面においてであれ、食人は多くの文化において忌避されているし、彼らが生きる世界においても同様であろうことが想像される。
なにより、「普通の感覚」を持つ人間にとって、人間の姿形をした生きものは共感の対象である。自らと同じ人間の「仲間」と見做せばこそ、人間はその他者に内面が存在することを想定し、その心情を推し量り、コミュニケーションを試みる。
他方、ライオスはとくに人間の姿形をしたものを忌避することはない。もちろん、それは決して彼が食人を肯定しているからなどではなく、おそらく彼が人間を人間であると判断する基準がチルチャックたちとは違うからであろう。彼はさまざまな生きものの生物学的な特徴を理解しており、そのうえで生物全体の中に人間を位置づけ理解しているように見える。彼はただ姿形が人間のようであるからという基準で以って相手を「同じ人間」とは見做さない。
人種についても同様である。ほとんどが偏見でしかない内面的な特徴ではなく、ライオスが言及するのは専らその身体的特徴であるし、それも「トールマンは無個性である」という認識のもと、バラエティに富んだ身体に肯定的な感情を示す。
先に人種についての偏見に触れたが、作中世界では実は人間同士も互いを深く理解している訳ではないことが示唆されている。人種間の偏見もそうであるし、あるいはもっと単純に、他人種の相手を勝手に自分の尺度で測ってしまうことによる不理解も散見される。例えばハーフフットの年齢に纏わる誤解などがその典型例である。
ここに描かれているのは、相手が「同じ人間」であるからといって、単純に共感をベースに相手を推し量ることによる齟齬である。この齟齬が引き起こした作中で最も大きな破綻がマルシルの行動であったのかもしれない。彼女はエルフとも他の種族とも違った時間を生きることを余儀なくされていることに深い苦悩を感じており、その特殊な境遇ゆえ、他の人びとの共感によってそれを理解されることは困難であった。
そういう意味では、そういう「普通の」共感性を持ち合わせていないライオスは、「普通の感覚」を持つ人間よりよほど冷静に、誠実に他者を理解しようとしていると言えるのではないだろうか? ライオスは生きものの生の喜びの根源を欲求の充足であるとマルシルに語り、マルシルは彼の手を取る。それは長命の種族どころか人間という枠組みすらも払い除けた、彼の観察眼のひとつの結実である。
そしてまた、ライオスはその飽くなき探究心と丹念な観察によって、悪魔をも打ち倒した。彼は悪魔すら欲求の充足を喜びとするものと看破し、その神聖な地位を剥奪しひとつの生きものに引きずり下ろしたのである。ライオスの前には人間も魔物もあらゆる生きものが等しく「生きもの」として位置づけられ、そしてその「生きもの」は欲求が充足するその瞬間、その動きに喜びを感じるのだ。
一方、ライオスの対極にあるキャラクターとしてカブルーが登場する。彼はライオスとは逆に、人間に対して極端なほどの興味を示す。彼はライオスと比べると一見人間関係に多くのリソースを割く平々凡々とした現代人のようでもあるが、その実、人間を観察の対象として徹底的に客体化しているようにも思われる。ライオスにとって生きもの全般がそうであるように、カブルーにとって人間は観察の対象である。カブルーは人間を深く理解しているけれど、その契機は共感とはまったく違ったものであるように思われる。
彼はその観察眼によってミスルンの陥った状態を「燃え尽きている」と断じた。ライオスが悪魔をその神聖な地位から引きずり下ろしたように、カブルーはミスルンが悪魔から被った害を「燃え尽き」という非常に凡庸で人間的な表現で語り直した。その転換は、ミスルンもまた人間という生きものであり、そうであるなら欲求が尽きることなどない、という認識のもとにおいて可能となったのだった。
ここに、本作の主要なテーマである「食」の意味が見てとれる。人間を含め、生きものは何かを食するその瞬間、すなわち欲求が充足されるその瞬間に喜びを感じる。腹が満たされたとき、欲求は一度は充足されるものの、また腹が空き、新たな欲求が生じる。喜びが訪れるのは欲求が満たされるその動きの、その瞬間であるから、二度と腹が空かないことなどだれも望みはしない。

本作はそのなまぐさい欲求を、生の原動力となり、喜びをもたらすものとして徹底的に肯定する。

狂乱の魔術師によって強力な術が掛けられたダンジョンおいても、食われ消化された者が死ぬという法則は変えられなかった。言い換えれば、ダンジョン内で生きものたちは生に縛り付けられているものの、食われることでそれを乗り越えることができるのである。
あるいはここに、食うことは食われる者にとっては死そのものである一方、食う側にとっては生の証であるという非対称性が見て取れるかもしれない。食うこと、すなわち欲求を持ちそれを満たすことは生者の特権であり、ダンジョン内ではその裏返しとしてのみ死が存在する。生者の特権を奪うことは狂乱の魔術師をもってしても不可能であったのではないだろうか?
一度は死んだファリンに生を与えるのもまた「食うこと」であった。魔物に食われて死んだ人間の生は、人間が魔物を食うことでしか取り戻せなかったのではないか。そしてそれが黒魔術を用いなければ成せないほど困難であったのは、彼女の死もまた、魔物の生の特権によってもたらされたものであったからなのかもしれない。